夢破れた者をみて考えたこと
今日は本気出して色々書きます。
先日、久しぶりにばったりと知り合いに会った。
彼とは、数年前に超難関(公認会計士)の資格を目指していたころの勉強仲間だったが、連絡先までは聞いていなかった。
彼は今現在、アルバイトをしながら就活だとのことである。
あまり元気がない今の彼を観て色々考えてしまった。
恐らく彼は、資格予備校の中でも1番勉強していたと思うほどしていた。
朝10時頃に来て、少なくとも夜9時まで黙々とやる。
何が凄いって、
私はトイレ以外席を立ったのをほとんどみたことない。
それくらいやっていた。
だが、夢が叶わなかったリスクは結構大きく、年を重ねて就職も行き詰っているようだ。
諦めた彼に、後少しかもしれないからやってみたらとは言えない。
それぐらいやっていたと思う。
人生は、目標に一番近い者が必ず達成するわけではない。基本的に未来が思い通りになる事もほとんどない。
年齢的にも就職がきつい状況になってしまった彼をみて、
果たしてもっと早く諦めてたら、もしくは初めからやらなければとも他人は思うだろうが、今から観ても挑戦した判断は正しかったと思う。
当時の判断材料では判断が正しかった。
当時ははっきりと勝算があったと言えるからだ。
入った時点で簿記1級、途中模試でも科目によっては名前が載っていた。
それでも受からない。
経験上、ここまでくるとその理由もよくわからない。
また本人が考えてる原因は間違っているかもしれない。
そして、彼より努力していない者が受かっている現実。
当時は勝算があって、いざ今蓋を開けると駄目だったこのギャップ。
自分にはとても切なく思うし、考える。
一つ違和感なのは、彼が受かっていたらこんな話していないということだ。
何が言いたいかと言うと、
努力は「結果」とセットになっていることが話の前提になっているということだ。
努力は「取引」なのか?
つまり受かるかどうかが努力の値打ちとなっているのかということ。
私の話の奥にはこの問題もある。
「あれだけやったのに・・・」は裏を返せば、
これだけやったんだから、これだけよこせという事の裏返し。
取引自体は悪い事ではないが、人生は運が作用するし、裏切られるかもしれないという気持ちは必要だろう。
また、
「結果が全て」というのは、恐らく嘘だろう。
だって、そうだとしたら今この話も嘘になってしまうからだ。
彼の努力は今後報われるかもしれないし、そうならないかもしれない。
ただ努力の評価が報わるかどうかだけが判断基準となると、
行った努力が無意味になると思う。
私は努力は報われないかもという前提が、努力を認める重要な一歩になると思っている。
突き詰めると、結局は、そこで何か得られたかだけだと思う。
楽しめたなら言うことはない。
努力という言葉が良くないのかもしれない。
とは言っても、結局何もやらなければ将来何か報われかどうかもないわけだし、そういう意味で行いは将来を担保しているだろう。
結局、取り組む姿だけが全てなのかもしれない。